12. 個別性の中から普遍性を見つける
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1. 事例研究とは
「一つの、ないしは少数の事例を正確に記述・分析し、そこから得られた知見を相似する他の事例への適用を目的として、理論的一般化を目指す研究方法」
医学分野では症例研究、法学分野では判例研究があり、それぞれの学問領域で重要な方法論的一翼を担っている 経営学の分野では、研究法にとどまらず、ケースメソッドと呼ばれる参加・討論型の教授法としての展開を見ている 事例研究は、統計学的なアプローチに基づく研究法を信奉する研究者から「非科学的」とみなされる傾向にある
事例研究では、社会的な文脈に埋め込まれて生きる人々の、複雑で繊細な心理や行動を明らかにすることをまずもって目的とする
扱う変数は多岐に及ぶ
その結果、研究の焦点となる変数はあらかじめ定められていないことが多い
事例は少数にならざるを得ないので、変数の分散の最大化や変数誤差の最小化といった研究方針が採用できない
事例はまさに生じた通りの、あるがままの姿のまま記述・分析されるので、外的な変数をコントロールして焦点となる変数の機能と変数間の関係性を統計的に推測するのも困難
1-1. 事例研究が依拠するパラダイム
今日の社会科学の方法論が依拠する2大パラダイム
この世の森羅万象はすべて法則に則って生じ、滅している
社会現象も自然現象と同じように、帰納法と演繹法を用いればその法則性を明らかにし得る したがって社会科学の研究者は、自然科学の研究者と同様、客観的な目と論理的な思考を駆使して、現象を貫く法則性を見つけることに精を出すべきである
社会現象はランダムに1回限りの現象として生じる
したがってその中に自然科学のような法則性を見つけることは不可能である
よって、社会現象の研究者は、言語を用いて固有の現象を質的に記述し、了解し、解釈することに努力を傾注すべきである
心理学の領域では、これら2つのパラダイムに依拠する研究アプローチがある
生理・知覚・感情・思考・学習など、基礎心理学の研究の多くは、実験室における実験や観察などの方法を用いて仮説ー演繹を繰り返し、法則性を見つけようとする 臨床・カウンセリング・生涯発達・産業・組織・コミュニティ・異文化など、応用心理学と呼ばれる領域の研究では、面接や心理検査、参与観察などを用いて個々の事象の個別性を明らかにすることを試みる傾向が強い 事例研究法は、その軸足を解釈主義パラダイムに置き、個性記述的アプローチを採用する研究法の代表例として位置づけられる
事例研究法は、論理実証主義パラダイムや法則定立的アプローチから見ると、たしかに「科学性」は乏しい
しかし、事例研究では、論理実証主義に基づく研究が研究の過程で見失いがちな「人間の営みに関する質的な洞察」を行うことができる
「個別事例から得られた知見を、相似する他の事例への適用を目的に、理論的一般化を目指す」ことを怠らなければ、事例研究は心理学の研究法として豊かな可能性を有している方法と言えよう
1-2. 事例研究における社会生態系のレベル
事例研究は「文脈内存在」である個人のありようを、文脈と切り離さずありのままに記述し解釈する研究法
事例研究では、対象となる事例をどの程度の範囲の社会的文脈まで広げて記述するかが大きな鍵となる
それぞれの社会生態系は独立に存在するのではなく、よりミクロな生態系はよりマクロな生態系に包摂されている
心理学における事例研究では、人間の心理や行動を記述・解釈・一般化するにあたって、その行動や心理がどのレベルの社会生態系や社会的文脈の中で生じているかを常に意識する必要がある
2. 事例研究の進め方
事例研究の社会生態系・社会的文脈の視座は、ミクロからマクロに至るまでの入れ子状態を念頭に置いたものであることが望ましい
2-1. 第1段階:事前準備
事例研究の第一歩は、事例の選定、研究目的の明確化、そしてリサーチ・クエスチョンの同定から始まる
事例研究の場合、研究対象となる事例には既に研究者が実践の中で長期間にわたって関わっている場合が多い
逆に言えば、研究目的に合致するような事例を探し出し、ステークホルダー(利害関係者)の了解を得て、事例の中に深く踏み入るという手順を採ることは、ステークホルダーの事情や、事例の一回性・個別性を考えると極めて難しい
そこで重要となるのが、なぜその事例を取り上げるのかという正当性、何を明らかにしたいのかという目的性を明確にすること
そのためには既存文献や先行研究を幅広くレビューすることが必要
文献レビューを行うことによって、問題意識の深化、既存理論と当該事例との関連性の吟味、現在我々が所有する知識のフロンティアの確認が可能となる
その結果として、その事例を研究することがわれわれの知識を前進させるという正当性と、その前進を何を明らかにすることで達成するかという目的性が担保されることになる
事例の記述は得てして長く、冗長になりがちであるので、短文で明解に示されたいくつかのリサーチ・クエスチョンがあれば、事例研究を行う上での道案内となる
またリサーチ・クエスチョンは、事例の記述が終わり、分析を行う段階でも有力な視点となる
2-2. 第2段階:情報の収集
研究目的を達成するためにどんな情報が必要かは、事前準備で行った先行研究のレビューによって概ね明らかになっている
より具体的には、個々のリサーチ・クエスチョンに答えるにはどのような情報が必要かを考えるとよい
どういう手法やソースを使って情報を集めるか
面接と面接記録
事例の当事者に直接面接をしたり、聴き取りを行い、その内容をきめ細かく記述する
当事者の同意が得られれば、当事者を取り巻く関係者も情報ソースとなる
心理検査と診断結果
事例の当事者に標準化された心理検査を行い、その診断結果を利用する
参与観察と観察結果
対象となる事例に当事者として関与しながら、多面的・長期的に観察を行う
観察結果はフィールドノート(現場ノート)としてまとめられる
二次的ドキュメント
対象となる事例に関連する過去の記録や、現在の状況を表す指標などを指す
具体的には、議事録、統計レポート、メモ、社会経済的状況などの資料がある
情報の収集は、先に述べた社会生態学的視座に立って行わなければならない
心理学における事例研究の多くは、それぞれにユニークな社会文脈の中で生きる個人の心理や行動を記述・分析し、その中から普遍的な理論を生み出すことにあった
したがって、事例研究で集めるべき情報は、単に個人の内的な心理状態や行動の特徴だけでなく、そうした心理や行動を生起せしめていると思われる社会的文脈に関するさまざまな情報も含むのが望ましい
多くの事例は、想像以上に直接の生態系(たとえばミクロレベル)から離れた生態系(たとえばマクロレベル)の影響を受けているもの
2-3. 第3段階:事例の記述
ここでは収集した情報を駆使して、事例を生き生きと記述することが求められる
読者が読んで面白い記述を心がけるのも一つのテクニックであるが、小説のように「創作」するのは避けなければならない
あくまでも①科学的研究の枠組みの中で、②情報収集の結果得られた証拠をもとに、③事実を忠実に記述する、ことを目指すのが望ましい
事例としてまとめるにあたっては、大量かつ多岐に及ぶ証拠を予め何らかの形で整理しておくと記述しやすい
時間軸に沿って事実を整理し、事例がどのように展開していったかを、事例を取り巻く社会的文脈と合わせながら記述するスタイルもよく用いられる
2-4. 第4段階:事例の分析と理論的一般化
分析に当たっては、リサーチ・クエスチョンの一つ一つを吟味しながら進めるとやりやすい
分析の妥当性と信頼性を高めるには、記述にあるひとつの事実だけを根拠にリサーチ・クエスチョンに対する答えを出すのではなく、記述に含まれる複数の証拠・情報源・情報収集方法を組み合わせる手段が役に立つ リサーチ・クエスチョンを支持する証拠が一つであるよりは複数であるほうが分析の妥当性が高くなる
その証拠が異なる情報源の、異なる方法から得られたものであれば、妥当性のみならず信頼性も増す
リサーチ・クエスチョンに対する答えを出し終わったら、その答えの一般化を試みる
ここで登場するのが先行する既存理論
既存理論と事例分析から得られたリサーチ・クエスチョンの答えの整合性を吟味する
理論と分析結果が合致している場合
理論を支持する証拠が一つ加わったことになり、その理論はさらに普遍性のあるものとなる
理論と分析が合致しない場合
一つの理論ではなく、別の理論を当てはめた場合の一致性を確かめる
他の理論を援用すれば結果が説明できるかもしれないことを期待する方法
既存理論そのものの修正を提案すること
これはよほどの証拠とロジックがないと、一つもしくは少数の事例研究だけでは説得力に欠ける
これを行うには、将来に向かって事例の数を積み重ねる必要がある
当該事例研究は理論的に説明できない特異なものであると判断する
大事なのは、その事例を理論に合わない特異なものとして捨て去るのではなく、
1. 新たな理論を構築するための火種として残しておくこと
2. 過去にも、そして将来にわたっても相似する事例が生起する確立がきわめて低い特殊な事例については、たとえ理論との整合性がなくても公に報告すること
3. 心理学における事例研究法の適用
歴史を振り返ると事例研究は、まだ理論が十分に発達していない研究領域で、新しい理論を生み出すためのヒントをもたらしてくれていたのがわかる(葉, 2011) その中から、今日でも参照されるグランド・セオリーが数多く生まれてきた
今日においても、事例研究法は心理学、社会学、人類学、地理学では重要な定性的研究手法として認知されている
しかし、科学的厳密性という観点から言えば、大量データを扱う統計学的アプローチに代表される定量的アプローチに比べると、その劣勢は否めない
イン(Yin, 2003)は「たとえ一事例であっても、事実が正確に記述され、説明可能な理論との比較可能性を備えている事例研究は、ひとつの完全な実験とみなすことができる」としている 3-1. 臨床心理学の分野
臨床心理学の分野では、治療場面におけるセラピストとクライエントとの会話の内容と過程を、つぶさに記述し分析するタイプの事例研究が頻繁に用いられる 情報の収集は臨床面接法によるものが主
事例の記述と分析はセラピストという当寺社が行うことに特徴がある
事例ごとに既存理論を参照して、症例の検討、治療過程の分析、治療効果の評価、が行われている
事例を増やすことによって、新たな理論を構築することもある
彼の精神分析を用いた神経症の治癒過程に関する理論もまた事例研究から生まれている
3-2. カウンセリング心理学の分野
カウンセリング心理学は、臨床心理学よりも人間の健康的側面に着目し、クライエントの発達促進を支援する学問 クライエントとカウンセラーの会話を記述、分析し、事例研究とする営みも行われている
しかし、それは臨床心理学のそれほどは深い記述とはなっていない
カウンセリング場面では、クライエントが自分の置かれた社会的文脈を、自ら調整することで問題を解決するのを支援することが多い
したがって、カウンセリング心理学における事例研究は、クライエントの抱える問題を引き起こしている社会的状況の記述・分析にその多くの部分が割かれる
3-3. 生涯発達心理学の分野
生涯発達心理学は、人間が生まれてから死ぬまでのすべてのライフスパンを視野に入れて、その過程で個人がどのような発達を遂げるかを明らかにする学問領域である 一般に人間は年齢を重ねれば重ねるほど、多様で複雑な社会的文脈にさらされ、個々人の発達の諸相は多様になり、個別性を増す
したがって、生涯発達心理学における事例研究は、より広範な社会的文脈、換言すればよりマクロな社会生態系の特徴の記述に多く割くと同時に、それらの社会的文脈と相互作用しながら発達してゆく個人の様子を記述・分析することが主眼となる
3-4. 産業・組織心理学の分野
産業・組織心理学は、産業組織という社会的文脈で人々が示す心理や行動を明らかにすることによって、より望ましい組織経営を目指すことを目的としている 産業・組織心理学における事例研究は、組織的文脈内における人間行動に焦点を当てたものから、職場や組織のマネジメントそのものを事例として取り上げるものまであり、その幅は極めて広い
ただ、後者に関する事例研究であっても心理学である以上、人間が登場しない事例はない
また、事例研究が単に知識の追求や理論の構築だけに終わるものではなく、何らかの形で当該組織の人的資源管理や人材育成に役立つものであることが求められる
産業・組織心理学分野で研究史に残る事例研究
キューバのミサイル危機のとき、ケネディ大統領をヘッドとするアメリカ政府の意思決定過程に集団浅慮(group think)が働き、あわや米ソ戦争がはじまりそうになった事例 スペースシャトル・チャレンジャー号の空中爆発事故に関し、テクニカルな危険性を討議する発射直前に行われた会議の席で、ひとりのエンジニアが危険を指摘する意見を提起したにもかかわらず、彼の意見を採用せず、スペースシャトルの発射の決定を行った過程を記述したものがある
3-5. コミュニティ心理学の分野
コミュニティ心理学は、学校、地域から国家、国際関係に至るまで、きわめて広い社会的文脈の視点から個人の心理や行動をとらえ、困難を抱える人々を支援しつつ、その原因となっている社会システムの改変をめざして、実践的に研究を行う学問分野 したがって、コミュニティ心理学における事例研究は、研究者自らがフィールドの中に身を投じ、当事者ないしは当事者集団に対し何らかの介入を行った結果や経過を、事例として記述することが多い
事例研究者は、当該コミュニティにコンサルテーションを行っていたり、アクションリサーチャーとして入っていたり、プログラム評価者として関わっていることも多い